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執筆者の写真清心寺

しあわせは気付くもの

新型コロナウイルスの流行に伴い、新生活様式という言葉も認知され、ソーシャルディスタンスと言った言葉を意識しなくても距離を取り合い日常を送っている。ここ数年で世の中の常識がひっくり返ったように思う。

さて、

「当たり前」という言葉の対義語は「有難い」。有難いとは〝ある事が難しい〟と書くが、数年前まで当たり前のように過ごしてきた日常が今はひっくり返り、コロナウイルスによって実は有難い日常であったと知らされたように思う。さらに言えば、今生きているこの事実が、既にある事が難しい事なのかもしれない。

今日という日を生きる事ができた。友人や家族と笑いあえた。ご飯が美味しい。何気なく過ごす日暮しは、見落としているかもしれないけれど、実はそこに有難い出来事が溢れかえっているのではないだろうか。


幸せを広辞苑で引くと「しあわせ」という読みでは載っておらず「さち」という言葉で引く事ができる。「さち」という言葉には〝海の幸〟〝山の幸〟と言った言葉があるように〝求めずとも与えられていた〟という意味があるようだ。そして、求めずとも与えられていた事を知らされてゆく事に「しあわせ」という読みが当てられて今日私たちが使う言葉となったのだろう。


幸せは努力をして築いてゆくものだと考えていたが、本当は既に人として生まれ、今日の日を生きることのできる自己を知り、自分を支えて下さる様々な人や物に気付いてゆく事なのかもしれない。そう知らされてゆく時、自己のまわりの物事に当たり前のものなど何ひとつなく、全てが有難い事であった、尊い事であった。と知らされ、手が合わさる世界が広がってくるのではないだろうか。



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